マルチの切れ目は縁の切れ目
マルチという言葉はなんとなく胡散臭さがつきまとう。イメージが良くない。マルチ商法は違法ではないのに。
かくいう私もマルチの世界に一時、身を置いていたことがある。
マルチはいわゆるネットワークビジネスで、どうしても人と人との繋がりが必要になってくる。
私は性格的に、人に勧めるということができない。
消極的だし、人見知りだし。
だから、逆にそういう世界をジャブジャブ泳ぎ回ってる人から見たら、いいカモになるのだ。
きっかけは突然だった。
元々、仲良くしていたママ友Aさんから急にイベントに誘われた。
「少人数の食事会があるんだけど来てみない?みんないい人だし、改まった場でもないから。」
人見知りの私は当然断った。
でもAさんも、そんな返事は当然予想している。
「みんな知り合いのところに突然、私が行ったらお邪魔でしょう?」
「そんなことないよ。気をつかうような人たちじゃないし、気にしないで大丈夫」
「私、知らない人と話したりするの、苦手なんだよね。しかもご飯食べるなんてもっとダメ」
「私も一緒だし、大丈夫だよ。とりあえず行って、ご飯食べてすぐ帰って、その後、うちでお茶してもいいんだし」
てな具合で、どんどん逃げ道を塞いでいく。
日頃、仲良くしてるだけでなくお世話にもなっていたので、今後の関係性も考えると強く断れない。
そして私は強く出るのがとにかく苦手。
結局、出かけて行く羽目になり、そこから私のマルチ時代が始まった。
Aさんの言った通り、食事会で出会った人たちは皆いい人だった。事前に私が来ることも知らされていたらしく、温かく迎えてくれた。
これが私にはいけなかったと今は思う。
人づきあいも消極的だった私は、人の輪の中心になることもないし、まず人から注目を浴びることもなかったのだ。
そんな人間が、初めて会った人たちから好意的な言葉を次々投げかけられ、お世辞を言われ褒められ、すっかりいい気分になってしまった。
そこから、また食事会のお誘いがあり、何度か行くうちにビジネスの話になってくる。
でも、決して私に売りつけるようなことはない。
買ってないから私は話の内容がよくわからない。
その頃には私も口を挟む余裕が出てきていたから、質問したりする。すると、みんな丁寧に教えてくれる。もっと勉強してみたら?きっとためになると思うよなんて言われて、講演会やら勉強会に参加するようになった。
出かけるのは決まって昼のうちなので、家庭には影響がない。子供が学校に行ってる間なのだ。
たまに遠出して子供の帰りに間に合わないことがあっても大丈夫。そういうことも想定してあって、私が断らないよう、手は打ってあった。
「ただ家にいて1日終わっちゃうこともあるのに、勉強して知識を得てるんだからすごいよね」とAさんはもちろん、会の人たちは皆言っていた。
会の中にも複数のグループがあり、グループ同士の交流もあった。でもみんな、自分のグループが一番と思ってて、仲良しなようでいざとなると裏切るような雰囲気を私は感じてた。
そのうち、私も商品を買うようになった。
しかし、一度買って終わりではない。続けなくてはいけないのだ。続けなくては意味がない、としつこいくらい刷り込まれてるから。
会のメンバーの中には盲信的な人もいて、自分たちは気づかせてもらってすごいよねなんて言っていた。そういう人はたいてい辛い経験をしていて、自分は救われたから、同じような人を放っておけないと言う。
そんな人を前にすると、中途半端な気持ちでいる私はダメだななんて思ってきてしまう不思議。
Aさんを通じて、子供と同じ学校に通うママ友が増えた。もちろんマルチつながり。
これも私が続けていた理由だ。
田舎ゆえ地縁が濃く、親同士が同級生なんてことも珍しくない土地柄。たどっていけば必ず知り合いに繋がるようなど田舎だ。
そんな所に途中から住んだ私は、小学校の入学式で現実を知ることになる。
子供はみんな保育園から一緒、きょうだいがいればその頃からのつきあいなんて人がゴロゴロ。
すでにママ友グループは完成されているのだ。
学校に親が参加する機会は少ないとはいえ、それでもなかなかの疎外感だった。
私がAさんの誘いを断りきれなかったのもこういうことが影響している。
そして、マルチのおかげで知り合えて、私もママ友が増えたというわけだ。
しかし、商品を買い続けるのも限界がある。
当然、お金が続かない。
会の人たちは熱心な人ほどマルチを仕事にしていて、裕福な専業主婦もたくさんいた。
私はどちらでもないので、それなら働こうと思った。ただ、この選択はあまり良しとされない。
誰かに伝えて買ってもらうことが最良なのだ。
会員も増えて、結果的に自分も楽になる。
それはできないと私は最初から伝えていて、時々、上の方の人からそれとなく言われても濁していた。
だから、せめて商品だけは買えるよう、自分で働いて稼ごうと思ったのだ。
結局、私は仕事を始める。
週に数回、数時間から始めたので、勉強会やらのイベントにも参加することはできたが回数はどうしても減ってしまった。
学校行事のために仕事のシフトを変えてもらうことはできても、会のイベントのためにはできなかった。そういう姿勢が熱心ではないととられたのかもしれない。
そして私自身にも変化が起きてきた。
仕事をするのは社会参加でもある。いろんな人がいることに改めて気がついた。どんなに良いことでも、それだけにすがっていたらだんだん偏りが生まれてくるのではないかと思うようになってきた。
自分で選んで自分で決めてるようで、そうではなかったと気づいた。
みんないい人だし、商品もとてもいいものだ。
でも、私は人に勧めるのがどうしても納得できなかった。自分が嫌だと思ってることをまた別の人に思わせる、嫌なことを引き継がせてしまうと思った。
これは私の意見だし、この考え方を捻くれてると思う人もいるだろう。
何の苦もなく、たくさんの人に勧めて感謝されてる人もいるのだから。
これはもう個人の資質だ。私にはできない。
そう思ったら自然と会から足が遠のいた。
仕事も変わったのでそれも理由になった。
会を通じて知り合った人たち、特にママ友たちとはそれでもつきあいが続くかと思っていた。
本当にいい人たちだったし、会のイベントとは関係なく、お茶したり、電話がきたりしていたのでそう思っていた。
現実は甘くない。
パタリとつきあいはなくなった。
あれだけ、大切な仲間とか言ってても、あっさりしたもんだ。
狭い田舎なのでばったり顔を合わすこともたまにある。もちろん、いい人だから無視なんてしない。
久しぶりなんて、少しは話もする。でもそれだけ。
たまには会わない?なんてことにはならない。
私は見限られたということだ。
スッキリしててこれもよかったのではと思うようにしている。
お正月の思い出
年が明けると、歳末の慌ただしさが一変して、ゆったりと時間が流れる気がしていた。親戚も少なかったので、年始の挨拶回りもすぐ終わるのが常。
お年玉も、小さい頃は自分で使える権限はなかったし、自由に使えるようになっても、正月は今のようにお店は営業してなかった。その年一年のお小遣いの足しにしていたような気がする。
お正月休みには祖母が泊まりに来て、それがなんとなく嬉しかった。
普段は私のいとこと暮らしてる祖母が、その時だけは自分ちのおばあちゃんになったような気がしたからだ。
娘である私の母は、祖母がいる間中、いろんな話をしていた。愚痴はもちろん、近所の噂とか、私のこととか、とにかくずっと話していた。
友人の多い社交的な母ではあるが、人からどう思われるかを常に気にしていて、裏の裏まで勘繰るところもあったから、心置きなく話せる相手というのは祖母だったのだと思う。
私はいつも、母が思い描く理想の孫としての態度や言動を暗に求められてる気がして、それを窮屈に感じていたなと思い出す。
母は、元気いっぱいで全身で嬉しさを表現する、おばあちゃん大好き!みたいな孫の姿を望んでいたと思う。
ある時、母が「どうしておばあちゃんが来てるのに話をしないの」と言った。
私は「何を話したらいいかわからないから」と答えた。
母は「何だっていいんだよ」と露骨にがっかりした顔をして、祖母と暮らすいとこを引き合いに出し、私のことを下げ、祖母にも不満気にこぼした。
母の望み通りにしないと怒られる気がして、それなら何もせずにいた方がいいと、全てに消極的になるのが私の常で、その姿勢は今もずっと、私に影を落としている。
祖母は、私が内心、祖母のことが好きで、でもそのことを上手く表せないことを知っていただろうか。
今も、お正月の穏やかな光に部屋が照らされると、なんとなく祖母の近くにいて、話しかけたい、でもこんなこと言ったら母に怒られるかもと逡巡する私の姿が浮かんでくる。