私とお餅の50年
今でこそ、お餅はスーパーで年がら年中買えるようになったが、私が子供の頃は本当にお正月しか食べられなかった特別なものだったように思う。
我が家は母の実家から貰うのが常だった。朧げな記憶では、昭和50年前後まで臼と杵で餅つきをしていて、母も手伝いに行っていたと思う。私も子供心に手伝いたくて仕方なかったのだが、母は自分がどれほど気が利いて手伝える人間かをさりげなくアピールするようなタイプ。やっぱりいてくれると助かるわ、なんて人から言われたいタイプ。そして結構、そつなくこなしちゃうタイプ。
そんな母は、子供が餅を落としたり、ふざけたりしたら大変だ、と何もしてないうちから決めつけるようなタイプでもあるので、やたら手伝いたいなどと言おうものなら頭ごなしに怒られる。
もし手伝わせて、その結果、迷惑をかけるような事を自分の子供が引き起こしたら、自分の活躍までふいになってしまうからね。
お餅を食べるといつもそんなことを思い出す。
今は餅つき機も買えるから、誰もが簡単に餅つきできるけど、もうやってみたいとも思わなくなった。物事に興味を持ってやらせるタイミング1つで、その後の人生にも関わることがあるのかもって思う。
たかが餅つきでもね。
私とお正月の50年
お正月という言葉に特別感があって、今よりずっと楽しかったと思う。楽しい理由だって、冬休み中だからとか、お年玉を貰って好きなものが買えるとか、そんな程度だ。
現代の方が楽しみ方を始め、何もかも上回っているのに、昔の方が豊かな気持ちだった気がする。
お正月の凧揚げなんて、今もする人はいるのだろうか。駒回しだってそう。私は回せないぞ。
羽つきなんてさらに見かけない。あの羽が小さくて当てにくくて、バトミントンと比べるとやりにくいったらなかった。淘汰されたんかな。
私とGWの50年
5月連休、ゴールデンウィーク。
50年振り返ってみても、特に楽しかったことなんてないかも。
小学生の頃は単純に学校の休みが多くて嬉しかったのかな。早起きしなくていいとか、学校までの長い道のりを歩かなくてもいいとか。
そもそも学生は連休じゃないし。
社会人になっても、これといって思い出はない。
どこに行っても混んでるだろうなとか、旅行に行ってみたいけど高いなとか、思ってるだけで行動しない私らしい。
子供を持ってから、なんとなく連休を意識するようになった。
自分に何も思い出がないのは、どこにも連れてってもらえなかったからかもしれないと思った。
自分の子供にも同じような思いをさせたらかわいそうなのかなと思った。
仕事柄、世で言われるような10連休とかは無理だったけど、休みならどこか行かなきゃと思ってた。
自分の心の穴埋めもあったのかもね。
一番楽しかったなと思い出すのは、人でごった返す東京へわざわざ行った時。
ホテルに泊まって、買物して、美味しいものを食べて、子供は楽しくなかったかもしれないけど、私はすごく満足した。自分がたくさんの人の中の1人になってる感覚があって、自由になった気がした。
誰も私のことなんて知らないし、私が何をして何を着ていても全く興味ない。
こんな自由を感じたのは生まれて初めてだったかもしれない。
今、当時と同じことをしても、楽しいだろうか。
満たされないかもしれないなと思う。
人生、その時に合った幸せの感じ方ってあるのだろう。
今の私にとって、ゴールデンウィークは別世界の話。ニュースで混雑する空港や駅を見て、連休という行事をする人がいるんだなという感じ。
目の前で時だけが流れている。
私と卒業の50年
私は卒業式が大嫌いだ。
元々、環境が大きく変わることが恐れを感じるくらい苦手なので、これからの新生活への不安と、今までの生活に別れを告げるのが嫌で、我慢していても泣いてしまうからだ。
それも半端なく泣いてしまう。メソメソと涙を流しているくらいならまだマシ。
その様子を誰かが見てたり、見てなかったとしても、見られたらと想像すると、必死に涙を止めようとして更に涙が出る悪循環。
「大丈夫?」なんて誰かに言われたりしたら、もう感情が爆発して収拾がつかない。
自分では泣きたくないのに泣くという状態になり、抑制できない自分がほとほと嫌になる。
涙の量と悲しさが反比例するのだ。
それがわかっているので、卒業学年になると心の片隅にうんざりする気持ちが生まれ、卒業式が近づくと共にどんどん大きくなる。
小学校の卒業式で、私はある大役を任された。
自分で志願したわけでも、先生が推薦したわけでもない。有無を言わさず、やらねばならない役。
初めてその役を練習した時、みんなの前でダメ出しをされ、どっと笑いが起きた。
それ以来、また笑われたらどうしようと、体がうまく動かなくなり、軽いパニック状態になった。
母にも嫌だと言った。でも全くわかってもらえず、「堂々としてればできるんだよ」という、激励ともつかないことを言われ、なんでこんな簡単なことができないのか、こんなことを泣いて嫌がるなんて意気地がないと言われ、しまいには怒られる始末。
2月頃から授業をつぶして卒業式の練習に充てたりしていた。私の役をこなす練習は毎回ではなかったけれど、今日はあるのかないのかと、ひとり恐怖だった。
あまりにも私ができないので、ひとり居残って、先生数人と特訓したこともある。集団で見られているのではないので、そういう時は上手くできる。
誰も私の苦しさをわかってくれなかった。
自分の子供を持ったら持ったで、また卒業式を経験しなくてはならなくなった。
これも本当に嫌だった。泣きすぎてしまうのだ。
自分の時とは違って、子育てのここまでの日々を思い、成長を感じ、堰を切ったように涙が溢れてしまい、ビデオ撮影も写真もまともに撮れない。
なんでいい大人になっても私はこうなんだと、懸命に気持ちを切り替えようとするけれど、考えれば考えるほど涙は流れる。
知り合ったお母さん、お世話になった先生にちゃんとお別れを言いたいのに、言おうとすると涙が先にきてろくに話すこともできず、それが恥ずかしくて逃げ帰ってしまう。
そしていつまでもそのことを考えて、挨拶すらまともにできなかったことが情けなくて悶々とする。
こういう場面で全く涙も流さない人はどういう精神状態なんだろう。
悲しい気持ちはあっても泣けない人の方が何倍もいい。むしろ、そうなりたかったくらいだ。
子供の卒業式前には、あまりにも憂鬱で、急に熱を出したりしないだろうか、休むわけにはいかないだろうかと思い詰めるほど嫌だった。
行きたいのに行きたくないのだ。この気持ちを上手く表現できないので、子供に、「無理に来なくていいよ」と言われたくらいだ。
自分と子供、数回の卒業式を経験したが、全くいい思い出がない。
卒業シーズンになる度、人生やり直せるなら、強い人間になって、思いっきり泣いて笑って楽しい卒業をしたかったなと思う。
私と読書の50年
今日は一粒万倍日と天赦日が重なる日。
こんな日は楽しいことをテーマにしよう。
私の子供の頃の楽しみは読書だった。時間を忘れるほどのめりこんで、叱られることもしばしば。
本の厚みがあればあるほど、楽しい話に違いないとワクワクした。
どういうわけか、私が通っていた小、中学校は、自由に図書室に入ることができなかった。
日常的な貸し出しももちろんなし。
本があるのに読めないという、すごく不思議な状況だった。年に何回か、図書室に入るチャンスがあり、そういう時は、どんな本があるのか見て回るのに忙しかった。
夏休みなどの長期休暇に入る前に、1人5冊だったか、貸出してもらうことができた。
通学は徒歩で1時間弱、歩いていたので、本を持って帰るのは至難の業。
20代の頃、来る日も来る日も本を読んでいたときがあった。好きなだけ本が読めた数年間。
すぐ近くに図書館があり、毎週通った。
それでも読めたのは年間100冊が限界。
そこがピークでどんどん読む暇がなくなり、携帯、スマホの普及と共に、本自体を読むことが少なくなっていった。
ちなみに電子書籍は読める気がしなくて手を出していない。好きな時に、ほんの少しでも読めるという点では、電子書籍は便利なのだと思うのだが。
本屋に行かずともネットでゆっくりと本が選べ、自宅まで発送してもらえるのは本当に便利。
今は、好きなシリーズや作家の作品を集めて、いつか読むべくためこんでいる。
そのせいか、買ったかどうか覚えてなくて、同じタイトルを同じ組み合わせで買ってしまった時は、自分の記憶力の衰えに愕然とした。
あと何年、何冊読むことができるだろう。
そう考えると、ぼんやりTVやスマホを眺めてる時間がもったいない。
読書も体力がないと続かない。
私とお年玉の50年
お正月といえばお年玉。
小さい頃は嬉しくもあり、少し怖くもあった。
怖いと言うのは、お年玉を貰うと、必ず母に金額を聞かれ、額によっては母が不機嫌になったり怒られたりしたためだ。
怒られたというのは、実際のところはニュアンスが違うのかもしれない。でも、子供心には怒られてると感じるようなことを言われたと思う。
母が思う以上の金額のお年玉を貰うと、母は「そんなにくれたの?」と責めるような口調で言い、「すぐ使うんじゃないよ」とか「そんなにお金を持っていたらダメだ」とか、とにかく貰った方が萎縮するようなことを言った。
なぜそんなことを言うのか、気持ちはわかる。
自分で稼ぐことも出来ず、お金の価値もろくにわからないような子供が急に大金を手にして、無駄遣いでもしたら大変だということだ。
でも、貰う側の私がどうにかできることではない。
その場ですぐ袋を開けて、こんなに貰っちゃったよと言えばよかったのか。
そんなことをしたら、烈火の如く怒られるのは目に見えている。
時には、母がその人に良くしているから、お年玉がこんなに貰えるんだと私に言うこともあった。
自分のお陰だということだ。
貰ったお年玉を取り上げられることはなかったが、こういう風に言われると自分のお金ではないような気がしてきて、モヤモヤすることがあった。
時を経て、私もお年玉をあげる立場になった。
親戚がとても少ないので、たいした額ではない。
日頃、ほとんどつきあいがなく、正月に顔を合わせるだけ。
おつきあいとしてのお年玉だ。
貰う方は当たり前のように、それでもお礼は言って貰う。
その姿を見てると、貰っても嬉しそうに見えなかったであろう、子供の頃の自分を思い出す。
母に何か言われるのが嫌で、貰う前から母の顔色を窺っていた私を。
受け取ると同時に、母が「ちゃんとありがとうって言いなさい」と言い、出鼻を挫かれたような状態になり挨拶もろくにできない子のような私の姿を。
私と50年
取り立てて秀でるものもなく、
友人が多いわけでもなく、
インスタにUPできるような出来事も特にない。
世の中にはこれら全てを持ち合わせてる人もいるわけで。
でも、そんな人も私も、平等に歳は取り、
1年という時間の流れも平等。
50代も半ばに差しかかり、私にも50年という時の流れがあると意識するようになった。
平凡な私でも、いろんなことに50年の思い出がある。
とっくに人生の折り返しは過ぎてる。
老いていく親を見ていると、今、ここで振り返っておかないと、記憶がどんどんあやふやになっていくんじゃないかという危機感も感じるようになった。
過去を振り返り、思い出すことで、気持ちの整理もつく気がする。
私のいろんな50年を今年は綴っていきたい。