私と1月の50年
お正月から始まる1月は、私にとって心穏やかに過ごせる時。小学生の頃は、毎日淡々と過ごせるのがよかった。自分の属するクラスの雰囲気にも馴染んでいるし、大きな学校行事もないからだ。私は日常の変化に対し、過敏な所があるのだが、こうして振り返ってみると、ずっと昔からそうだったのだなと。
1月は寒いので、母から外に遊びに行けとも言われない。好きに本を読んだり、人形遊びをしたり、絵を描いたりできた。母は、子供というのは誘い合って外で駆け回って遊ぶものと思っていた節がある。自分がそうだったからだ。だから、家の中で1人で過ごすのは、友達がいなくてすることがないからだと短絡的に結びつける。友達が多くてリーダータイプであった自分の子供が真反対の行動をしているというのは、情けなくもあり、認めたくもなかったのかもしれない。何度となく、一緒に遊ぼうと誘えとか、近所の同級生の家に行ってみろとか言われ、私は本当に嫌だった。そんなことはしたくないと反発するのだが、そんなに強く言い返す元気があるなら、なぜ遊ぼうと誘えないんだと怒られる。論点が違う上に、子供だからうまく反論できず、悔しくて私が泣くと、そんなに悔しがるなら遊びに行ってこいとさらに追い討ちをかけられる。
私は今でも1人でぼんやり過ごすのが好きなのだが、時折、このままではいけない、何か行動しなくてはと焦燥感に駆られることがあるのは、それが原体験になっているのかもしれない。
1月は自分の心を休める月。これでいいんだと再確認する月。そう決めている。
私と年末の50年
年末に向けての忙しない雰囲気が好きだ。大人になってから、より好きになった。
どことなく浮き足立つ感じとか、同じ空気感を皆で味わってるみたいな感じが好きなのだと思う。
日本中あちこちでいろんな人が年末で忙しいって思ってるのかなと考えると楽しくなってくるのだ。
母は、掃除は好きだったと思うが、整理整頓は苦手。掃除にもマイルールがあり、子供である私に手伝わせる時には具体的な指示を出す。適当にやろうものなら怒られる。大掃除となると急にスイッチが入って、ぎっしり詰め込まれた押入れの中身を全部取り出して片付けたりしていた。部屋中、物だらけで夜の9時10時まで掃除をしていることが年末にはよくあった。自分で広げたものの、うまく片付かず、かといって母の性格的に中途半端にもできない。日頃からちゃんとしておけばこんなことには…という鬱憤もたまって、私が中学生以降はけっこう当たられた。私が何もしない、という理由をつけて。〜さんちの〜ちゃんはお母さんが忙しくて大変だからって夕飯作ってくれるんだってよ、とか、〜さんちはいつ行っても綺麗になってる、きっと子供もすぐ片付けてるからだろうとか。言われたところでこっちはどうすることもできない。ちなみに母は料理も私には一切させなかったので、こういうことを言われる度に、私は矛盾してると思い腹立たしかった。野菜ひとつ切らせることもさせないのに、ご飯を作るよその子が羨ましいってどんな話?
実家を出てからは、自分で年末に向けて買物したり掃除したりするようになって、再び、年末感を楽しめるようになった。12月に入った途端に毎日のスケジュールを作っていた時もある。
ここ数年は、年末だからと何かをすることがしんどくて、いろんなことに目を瞑っている。それでも私は年末が好きだ。この楽しい気分が31日の大晦日でプツンと切れてしまうのが残念。
私と夏休みの50年
小学生だった頃の夏休み。当時は今のように旅行だレジャーだと騒いでなかったと思う。我が家も余裕がなかったのか、小学生の6年間、夏休みに家族旅行に行ったのはたった一度。それもかなりの遠出、強行軍だった。家族旅行といっても父方の親戚と一緒だったので、母が終始カリカリしていて、ちょっとでもモタモタしてると怒られた。それでも旅行という非日常の体験と未知なる風景の方が嫌な気持ちを上回り、今でも思い出として強く残っている。
日常では、山のような宿題をこなす中、苦手な工作と絵を後回しにするのが毎年の常だった。今思うと、1クラス40人を超える子供たちを先生が全教科担当していて、提出された宿題を見る間があったのだろうか。工作するものが何も思いつかなくて、親にも怒られ、提出しなかったら先生にも怒られると思いこんでたけど、ろくに見てなかったのかもしれないなら悩むことなかったな。今のようにネットがあったら、簡単に用が足りたろう。
夏休みの一番の楽しみは、祖母の家に泊まりに行くことだった。近くなのでしょっちゅう行っていたけれど、泊まるのは夏休みの時だけ。祖母宅にいるいとこたちと夜まで一緒にいてお風呂に入ったりするのがすごく新鮮だった。いつもと違う環境でなかなか眠れないのも目覚めるのも楽しかった。6時前から祖母は起きていて、座敷をはく箒の音、ご飯の炊ける匂い、大人たちの話し声、蝉の鳴き声、井戸の水を汲む音…いろんなことを思い出す。
今はもうないその家を夏になると時折思い出す。
私とGWの50年 ②
ずーっと、GWに海外旅行に行ける人ってどんな人?って思ってた。わざわざ旅行代金の高い時に行けるんだもの、きっとお金持ちなんだよなって。
でもこの50年で、海外旅行へ行くこと自体のハードルはとても下がったと思う。旅行先のひとつとして海外も選べる、みたいな時代になった。高校の修学旅行先にだって海外があるくらいだ。
私は今も昔もGWに旅行ができる環境にない。仕事を辞めれば、とりあえずは行ける環境になるが、それはGWに限らずいつでも行けるということでもある。旅行に行く暇があるというだけ。
だけど最近思うのは、暇ができても気力の方がなくなるってことだ。海外に長時間飛行機に乗って行くのは、相当な体力と気力がいることだったんだなと痛切に思う。
だから、行きたいと思ったら行く、お金がなくたってどうにか工面して行く、それが今の私が得た教訓。30代のうちにもっといろんな所に行けばよかった。40代で思い切って長期滞在とかしてみたかった。
今の私にできる旅をこれからの目標にしよう。
私とクリスマスの50年
本来の意味はともかく、私がクリスマスという行事をはっきりと認識したのは小1の時だったと思う。
1m20㎝くらいのツリーが我が家にやってきたのだ。その後も毎年、飾りつけるのが嬉しくて仕方なかった。今と違って、ツリーをずっと飾るという風習がなく、クリスマスを挟んでの数日間のみだったから余計に楽しかったのかもしれない。
クリスマスイブの日は学校の終業式で、通知表を貰う日でもあった。当時の成績表は小学校高学年になるまでは3段階評価。私は成績自体は悪くはなかったと思う。ただ、当時の先生たちは通知表に細かく評価を書いてくれているのが常で、それを見た母に怒られることはよくあった。
私は欠点として、物事に消極的と書かれることが多く、中には、実力があるのに発揮できず勿体ないなどと書いてくれる先生もいて、元気いっぱいリーダー女子が大好きな母は、そうなれない私を詰るのである。理想像を押しつけるってやつだ。
その怒りがどの程度になるかはまさに神のみぞ知る。それを耐えさえすれば、クリスマスからの冬休み、私の自由な時間となるのであった。
私とお餅の50年
今でこそ、お餅はスーパーで年がら年中買えるようになったが、私が子供の頃は本当にお正月しか食べられなかった特別なものだったように思う。
我が家は母の実家から貰うのが常だった。朧げな記憶では、昭和50年前後まで臼と杵で餅つきをしていて、母も手伝いに行っていたと思う。私も子供心に手伝いたくて仕方なかったのだが、母は自分がどれほど気が利いて手伝える人間かをさりげなくアピールするようなタイプ。やっぱりいてくれると助かるわ、なんて人から言われたいタイプ。そして結構、そつなくこなしちゃうタイプ。
そんな母は、子供が餅を落としたり、ふざけたりしたら大変だ、と何もしてないうちから決めつけるようなタイプでもあるので、やたら手伝いたいなどと言おうものなら頭ごなしに怒られる。
もし手伝わせて、その結果、迷惑をかけるような事を自分の子供が引き起こしたら、自分の活躍までふいになってしまうからね。
お餅を食べるといつもそんなことを思い出す。
今は餅つき機も買えるから、誰もが簡単に餅つきできるけど、もうやってみたいとも思わなくなった。物事に興味を持ってやらせるタイミング1つで、その後の人生にも関わることがあるのかもって思う。
たかが餅つきでもね。
私とお正月の50年
お正月という言葉に特別感があって、今よりずっと楽しかったと思う。楽しい理由だって、冬休み中だからとか、お年玉を貰って好きなものが買えるとか、そんな程度だ。
現代の方が楽しみ方を始め、何もかも上回っているのに、昔の方が豊かな気持ちだった気がする。
お正月の凧揚げなんて、今もする人はいるのだろうか。駒回しだってそう。私は回せないぞ。
羽つきなんてさらに見かけない。あの羽が小さくて当てにくくて、バトミントンと比べるとやりにくいったらなかった。淘汰されたんかな。